物の形は一つではないということを子供に教わる

今日は帰ってきてから子どもといっしょに遊んでいました。 いつもはトミカで遊んでいますが、今日はなぜか粘土で遊びたいと言っていましたので、粘土をこねくり回して遊んでいました。

子どももトミカは大好きです。 トミカ以外のミニカーがあっても、なぜかトミカで遊ぶんです。 きっとトミカの良さがわかるんでしょうね。

だけど今日は粘土で遊びたがっていました。 トミカといっしょに遊んでも良かったのですが、今日は積み木と粘土遊びです。 トミカで遊ぶと、ミニカーという形のあるものです。 遊び方も同じような感じになってしまうのです。 しかし積み木と粘土だと、積み木はひとつひとつ形はあるけど積み上げるたびに形は変わります。 粘土も積み木に合わせて形を変えていきます。 遊ぶということに関しては変わらないけど、積み木と粘土という組み合わせは形が変わるのでいくらでも楽しむことが出来るんです。

粘土は塊でも遊べますし、伸ばしたり押しつぶしたりしても遊べます。 変形した粘土に積み木を組み合わせても遊べます。 見たことのない形に、子どもは喜ぶんですよ。 遊ぶことが無限に増えていく感覚でしょうか。 面白さは形を変えて、いくらでもあるということです。

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物事の本質は一つしか無いと思っていたこと

おもちゃの話を物事の本質としても置き換えられることに気が付きました。 大人になるにつれて、物の使い方、考え方というのは自分の経験したことを基準にします。 基準という考え方が出来てしまえば、物事は一つの方向からしか見えていないことになるんです。

でも、物の使い方、考え方を経験という基準を考えなかったら、使い方を考えて、考え方を見つける事が出来るんです。 すると、一つしかないと思っていた使い方、考え方が、複数見つかることに気がついたんです。 当たり前だと思った人も居るでしょう。 しかし、改めてものの使い方、考え方を別方面から見る努力をしてみたら、自分が経験から物事を考えていたかが解ると思いますよ。

ここで何がいいたいかというと、凝り固まった考え方を持つと、他人にもその考え方を押し付けてしまう事にもなるということです。

他の人の考えかた、見かたが、自分の考え方、見かたより良いものかもしれません。 その答えを放棄しているということなんですよ。 もったいない話でしょ? 物事の本質を知ったと思っていることが、良い選択肢を自ら無くすことになっているんですから。

ぼくは理数系の考え方をしていることがあります。 数式は物事の全てにおいて=(イコール)の両側は同じく等しいことです。 数式において例外はありません。 科学においても数式が元になっています。 物理においても数式が元になっています。 なので、物事の本質を知ることが正しいと思っていた事になるんです。 実際は物事の本質は人により違いはあるのですが、本質イコール一つと思い込んでいては、他の考え方なんて頭に浮かびませんからね。

そういった意味でも、積み木と粘土の組み合わせは、子どもの笑顔と共に、ぼくの考え方を柔らかくしてくれました。

まさか、ジジイに近づいている年齢で考え方を変えられると思いもよりませんでしたけどね。

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表があれば裏が必ずある

このことは以前から思っていたことです。 物事の見えている事が全てではなく、その裏にも見えている部分と同じように理があるということです。 このへんは理数系の考え方から来ています。 偏った考え方の反対にも、その意図が隠されていなければおかしいというのが考え方の元になっています。

いろいろ調べてみると、極端な考え方をしている人は、それだけでは合点のいかないことが多々あります。 偏った考え方の反対を考えると、ようやく納得いくことが多いんです。 つまり、何かを隠そうとしていることがある場合、逆のことを強烈にアピールすることで隠したいことを見えなくしようとしているんですね。 この考え方は個人的な小規模のことから、国単位の大規模なことまで当てはまります。 個人的に各国の諜報機関の事を調べれば、似たようなことを感じるはずです。 趣味的なことに留めておいたほうがいいところでもありますけどね。

表の見えているところだけを調べると正しい事象に辿りつけませんが、裏の見えないところを想像して調べていくことで、正しい事象へとたどり着ける事もあるんですよ。 どこかの漫画にも出てきますが、真実というのは一つであって、人により真実が違うということはありません。 人を説得するなら真実がいちばんですし、それ以外では人を本気で納得させることなんて出来ませんからね。

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目に見える事が表なら目で確認できないことは裏

物事の本質を多角的に捉えることで本当のことを知ることが出来ると思っています。 極端で偏った考え方の裏には、何か隠された事実があるということがほとんどです。 それを見抜くには本質を一つの方向からだけではなく、多方向から見ることが必要であり、偏った考え方の反対の事も考えなければなりません。 それも一つではなく二つ、三つと考える必要がありますね。

隠したい事実ということは、隠す方だって本気で隠しています。 隠しているということは、どこかにができているということでもあります。 矛盾を隠すという事をしているから事実にたどり着くことが出来ないんですね。 でも、歪みができているから多方面からの思考で真実を見ぬくことに繋がるんです。

この事を政治的に考えると更に面白く思えてきますよ。 政治家は自分のために政治家になります。 間違っても国民のために政治家になる人はほとんど居ません。 それは選挙の演説を聞いていればわかることです。 それでも政治家は、知名度、地位から人を掌握する術を知っています。 知恵の足りない人を見かたにつけるのは朝飯前なんです。 たぶん本気で暴露するために事実を突き詰めたら、叩いて誇りの出ない政治家はいないでしょうからね。

目に見えていることは、目に見えているのですから事実です。 事実だから人が信用しやすい出来事としてしまえるんです。 本当の事実を隠したいから目に見えることを作り上げているということですね。 このあたりまで来ると、ひとつひとつの事象ごとに多方面から考察しなければなりません。 人をだまくらかすのがプロならば、それくらいは必要だということです。

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時期により本質は変わる

物事には時期というものがあります。 本質を捉えていない出来事でも、時期が来れば本質になり得るということです。

ちょっとむずかしいことかもしれませんが、考えれば簡単なことです。

事実ではないことを真実にしてしまえばそうなりますよね。

政治家で話をしましょう。 政治家は選挙で公約を掲げます。 それは自分が当選したいから国民にいい情報を与えているんです。 政治家は公約を守らなければならないということはありません。 口約束的な公約は、将来的に実行しなくても何ら問題があるわけではないのです。

しかし当の本人にしてみれば、次回選挙でも当選したいというのはあります。 数年先になりますが、その時も今より楽に当選したいというのが本音です。 ならばどうするか。 公約を口先だけではなく実行することです。 公約を守る政治家なんて半分もいません。 そこで公約を実行するということは、この政治家は他の政治家とは違うと思わせることができますし、次回以降の選挙も優位に進められます。 事実ではなくても実行することで真実にしてしまうんです。 これは物事には時期があるということと同じなんですね。 公約意外で実行したところで意味が薄いということです。

本質を上手く利用したものの一つが公約というものなんでしょうね。 ぼくも公約という手法を手本にしようか考えたくなります。

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常識に隠された本音

さて、今回の本題です。 常識とは人の経験です。 人が経験したことが常識として存在しているわけなんですが、その常識が正しいか、正しくないかということを考える人はいないと思います。 常識にこそ本音が隠れているんですね。 本音を隠すにはいちばんいいところだと思いますから。

常識というのは理論的だと勘違いしている人が多いんですよ。 常識って誰が決めたのか知ってますか? 自分なんですね。 自分の決めたことに理論がありますか? 常識というのは理論的に真実ではないということです。

人は常識を楯に他人を論破しようとします。 人を自分の意見に従わせることに快感を覚えるものです。 そういう人が理論武装したと思わせる「常識」というものを掲げて言い合いをするんです。 でも、そもそも常識というものが自分の決めたものであって、理論的ではないんですからね。 そこを突かれると、常識を常用しているひとはなにも言えなくなってしまいます。

理論的に相手を論破したいのであれば、常識ではなく多角的な物の見方から導き出す本音及び真実なんです。 常識で話し合いをしたところで、意味のない話し合いとなることでしょう。 本音の見えない話し合いなんて、無意味だということです。

それでも常識にも真実らしきものはあります。 それは統計学的に見れば真実だと思われることも在るということです。 あくまで、真実らしきものであって、常識とは真実を隠すものでもあるということです。

両側面をしることで、迷うことを減らすことが出来ますからね。 知っておいて損はないですよ。

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なんだぁ?子どもとの遊びから随分話が飛躍している気がするぞ。 だいたい真実、本質なんてものは隠しておきたいなら隠しておけばいいじゃないか。 わざわざ掘り起こすことなんて必要あるのか?

探偵でもあるまいし。

嘘かホントかなんて、ぶん殴ってやれば一発で見分けつくだろ。 なんでそんなまどろっこしい事やるんだよ。 オイラなら相手の目を見ただけでビビらせられるぞ。

君のはビビらせるだけでしょ。 結局、そんなことをやっても本質は見えないし事実もわからないよ。 でもほとんどの人が君と同じような考え方で押し通すこともするんだよね。 勢いで行くみたいな。

一時であればそれでもいいけど、なんども同じことを繰り返す可能性もあるよね。

だけど、理論的、本質を突き詰めれば相手も納得するからね。 説得するのも一度で大丈夫でしょ。 これもすべて、子どもと遊んでいる時に積み木と粘土から感じたことなんだよ。 大人になって、凝り固まった考え方をしていても、それを少し溶かしたほうが良いってことなんだ。

そのほうが理解を得られるのが早いからね。

わかったかな?

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